イーディ アンディ タイトル

1943 andy warhol

BFA(美術学士)を手にフィリップ・パールスタインとニューヨークへ

大学卒業後、親友フィリップと共にニューヨークへ。
アーティスト、デザイナーなどクリエイティブな仕事はニューヨークに集中していた。アンディも当然この地での成功を夢見ていた。

彼はこの後、二度と故郷ピッツバーグに戻ることはない。後年、インタビューで出身地を聞かれてもまともに答えたこともなかった。故郷=ルーツを探られるのを嫌ったからだろう。同時に、他者からの影響も否定する。
「もしぼくのことを知りたいなら、ぼくの絵画や映画や表面をみてほしい。そこにぼくがいる。その背後にはなにもない」「機械になりたい」彼の有名な言葉だ。

ニューヨークに出た彼は、フリーランスのコマーシャルアーティスト*として数々の仕事をこなす。 彼の営業方法は、さえない服にボロ靴という出で立ちで、見るからに貧相を装い、ディレクターらの同情をかうというものだったという。もちろん同情だけで仕事が続くほど甘くはない。初期アンディ・ウォーホルの作品集を見るとわかるように繊細で華やかなものばかりだ。そんな作品と容貌のギャップもまたディレクターの印象として残ったのではないだろうか。
こうしてアンディは「ヴォーグ」「ハーパースバザー」「グラマー」など、名だたる雑誌の仕事に関わっていく。

コマーシャルアーティスト。いわゆる商業美術家。当時は現在のようにグラフィックデザインの仕事が細分化されておらずアーティスト的側面が強かった。現代の感覚で当時の作品を見るとアートとして見えてしまうが、当時のアートはもっと高尚なポジションにあり、商品を売るための媒介(広告)として扱われることはなかった。グラフィックデザインとアートの世界には大きな隔たりがあったのだ。

同時期 トルーマン・カポーティ と出会う。
すでに有名小説家であったカポーティにアンディは毎日手紙を書き、時には彼の住まい近くまで足を運ぶこともあった。もちろんカポーティが、まだ無名のアンディを気にかけるはずもなかった。 しかし、そんなアンディを見たカポーティの母が家に招きいれたのだという。
この時カポーティの母は酔っていたらしく、酒の勢いで呼んだだけだったらしい。おかげでカポーティは毎日のようにかかるアンディからの電話に悩まされたいう。

後にアンディが有名になってからは、パーティで出会うようになり良き友人となった。

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