イーディ アンディ タイトル

1966 andy warhol | → 1966 edie sedgwick

ベルベット・アンダーグラウンド巡業ツアー

1964年頃からファクトリーの常連となっていたベルベット・アンダーグラウンドとの活動が本格化。
実験公演「アンディ・ウォーホル・アップタイト」に、ベルベット・アンダーグラウンド&ニコを使ったのをきっかけに発展していく。 公演は、音やダンスに加えストロボフラッシュライトや映像を流すなど視覚効果も十分に刺激するマルチメディアショーと言えるもので、当時としては実験的なものだった。

この公演に「ルペ」が上映され、イーディも即興のダンスを披露する。アンディの活動にイーディが関わるのはこれが最後となる。(後年、映画の撮影で会うことになるが、二人とも望んでいなかったという)

実験公演成功を受け、ベルベット・アンダーグラウンド&ニコの巡業ツアー「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」が実現する。アンディはこのツアーに同行しプロデュースしていく。

ニコはヨーロッパでボブ・ディランと出会ったのをきっかけにニューヨークに来たと言われる。ちょうどディランがフォークからロックに傾倒し始めていたころファクトリーを訪れることも多く、ニコは次第にファクトリーの重要なメンバーとなっていく。

もう一人この時期の重要なファクトリーメンバーにポール・モリッシーがいる。学生時代から自主制作映画を作っていた彼は、ジョナス・メカス (当時のアングラ映画第一人者。詩人でもあり映像作家でもあった彼は、ウォーホル映画の上映も積極的に行っていた)を通じファクトリーに出入りするようになる。
モリッシーが制作に関わるまでのウォーホル映画は、アングルを固定した「絵」的な作品が多かった(あえてそうしていたのか、それしかできなかったのか)が、彼の提案でカメラアングルを変えながら撮影した「マイ・ハスラー」は、みごと収益を上げた。芸術活動の一環として映画を撮っていたアンディだが、その芸術とビジネスとのバランス感覚がモリッシーと似ていた。アングラ映画とは言え収益を上げること(すなわち大衆に受け入れられること)は重要だった。
次第にポール・モリッシーはアンディの映画制作になくてはならない存在となっていった。

*「マイ・ハスラー」は、当時、ホモセクシュアル的表現が一般に認められてない中で 収益を上げた画期的作品となる。

同年、キャステリ・ギャラリーで個展。「牛の壁紙」や「空飛ぶ銀の枕」が出品される。 この時アンディは映画制作に専念することを宣言した。
宣言したのはいいがベルベット・アンダーグラウンドとの活動にかかりきりだったアンディは映画に取り組めず、とうとうシアターから上映作品の催促をされ、急遽撮影した映画が「チェルシー・ガールズ」と言われている。イーディをはじめ「スーパースター」達が住んでいたチェルシーホテルでの彼女達を撮った作品なのだが、もともと1本の映像作品として撮られたものではなく、8ヶ月もの間実験的に撮りためていたチェルシーホテルの様子を、モリッシーとアンディで再構成したもの。12篇の断片的な映像が1本の映画になっている。 この映画は商業的に最も成功を収め、後にウォーホル映画の代表作と言われるようになる。

イーディも出演していたが彼女の希望でカットされる。替わりにベルベット・アンダーグラウンド&ニコが挿入された。)

イーディとの関係が悪化していく中、ファクトリーに新しい「スーパースター」が迎えられた。イングリッド・スーパースターだ。ヴィヴァもファクトリーのメンバーとなっていた。

アンディ・ウォーホルが「スーパースター」と呼んだファクトリーアイドルの変遷

  • 1:ウルトラ・ヴァイオレット(1963)
  • 2:ベビー・ジェーン・ホルツァー(1964)
  • 3:イーディ(1965)
  • 4:ニコ(1966〜1967)
  • 5:イングリッド・スーパースター(1966)
  • 6:ヴィヴァ(1967)

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